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「お母さん、おっぱいひとつ無くなったんじゃろう。見せてみて」
二男の言葉に私は、久しぶりにおなかの底から大声で笑った。
乳がんを宣告されたのは二〇〇四年三月のことだった。私には四人の子供がおり、その時、長男小学六年生、長女同一年、二男五歳、末の娘は一歳十か月だった。
当時の私には、自分の体を気遣う余裕などは全くなかった。がん告知を受けるについてさえ、家族とともに日を改めて検査結果を聞きにくるよう勧めてくださった主治医の配慮を断り、その場での告知をお願いした。別の日にして、もう半日仕事を休むわけにはいかなかったのだ。自らががんであることを告げられても、自分の体のことは二の次だった。
治療法として、乳房切除の説明を受けた私の第一声は、「おっぱいはなくなってもいいんですけど、死ぬのは困るんです。まだ子供が小さいもので」というものだった。
職場の皆さんのご配慮で、私は、告知一週間後には、がんとともに左乳房を切除した。
手術入院の前夜、私は、さすがに長男とそうすることはもうできなかったけれど、下の三人の子供たちとは、一緒にお風呂に入った。
「おっぱいはなくなってもいい」などと主治医に言ってはみたものの、私にとっては子供たちを大きくするために一緒に頑張った、とても大切な「おっぱい」だ。
特に「左のおっぱい」は、陥没乳でお乳の出が悪く、それでも吸わさないと本当に出なくなるという思いから、親子共々頑張って授乳した。「左のおっぱい」は思いの深いおっぱいなのだ。
私は、この二日後には無くなってしまう私の「左のおっぱい」のことを、子供たちに覚えておいて欲しいと願った。
お風呂に入り、子供たちに向かって私は「お母さんのこっちのおっぱい、ちょっと病気になっちゃって、手術して取ってもらうことになったの。ただそれだけのことだけど、赤ちゃんのあなたたちを大きくするために、一生懸命頑張ってくれたおっぱいだから、よく見て忘れずにいてあげてね」と話した。
少し気遣いの出来る年齢になっていた長女は、本当にかわいそうという顔をして、言葉を探しているようだった。やんちゃな二男は、「ふーん、おかーさん、おっぱい無くなるん。ふーん」と、別に気にする風も無く、ただ何度も「ふーん」を繰り返していた。
二女は、当時まだ断乳が完全でなく、眠りに入る時には欠かせなかった。まさしく二女にとって、「左のおっぱい」は現役選手だったので、いつものように甘えてほほを寄せてきた。
心から信頼できる素晴らしい先生のもと、私の乳房切除手術は無事に終わった。私自身も明るい気持ちで過ごすよう努めたし、病院のスタッフの皆さんも、そのために心を尽くしてくださったので、運命を呪ったり、境遇を悲観したりせず、前を向いて歩くことができた。しかしそれでも泣かずにいられない時は、独りきりの時を選んだ。
手術後二週間が経過し、初めての外出が許可された。長男の小学校の卒業式に出席するためだった。帰宅した私を子供たちは、「待ってました」とばかりに迎えてくれた。
そして、二男が私に向かって言ったのだ。
「お母さん、おっぱいひとつ無くなったんじゃろう。見せてみて」。
それは約一か月ぶりに私の心に投げかけられた、ストレートな言葉だった。病気が分かってからというもの、周りの人達は私にかける言葉にもとても注意深くなっていた。きっと私が逆の立場であってもそうするだろう。心遣いを、切ないほど感じていた。そんな時に、「別に何のことはない」という風に投げかけられた二男の言葉は、おかしくて、心地よかった。
二男を止めようとした長男が、大笑いしている私を見て、ほっとしているのが見て取れた。前向きなつもりでも、やはり色々なことを考えるものだ。「母」という字が「女」に「乳房」を表しているのなら、これで私は子供たちにとって名実共に何か足りない母親になってしまったことになる、などとつまらないことを思っていた。
そんな私にとって二男の言葉は、おっぱいがあろうが無かろうが、この子は私が私であることをそのまま受け入れてくれている、ということが伝わってきて、本当にうれしかった。私は、「こんなわんぱくを置いては逝けないぞ」と、心に誓った。
よく、「四人も子供がいて大変だろう」と言われる。そんなことは思ったことも無かったけれど、さすがに今回だけは、まだまだ小さな二女のこともあり、先のことを案じたりもした。
しかし、私はこの四人の子供たちがいてくれたからこそ、自分の存在価値を常に感じることができ、必要とされている自分を無くしたくないという強い意志を持ち続けることができたと思う。ありのままの私を、そのまま受け入れてくれる子供たちの存在が、常に私の心の支えだったのだ。
「ありがとう。私の左のおっぱい。私の不注意であなたを失うことになって、本当にごめんなさい。でもあなたの存在は、四人の子供たちの中でずっと輝き続けてくれるはずだから」
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